死にがいを求めて生きているの

朝井リョウの「死にがいを求めて生きているの」を読んだ。本を読むのは決して早くはないのだけど、スキマ時間を使って2日ほどで一気に読みきった。他にやらないといけないこともたくさんあるのにね。ふむ。
 
さて、読み終わったところで思うことは何ともヒリヒリする小説だったということ。わかってはいるんだけど向き合えてない事柄に対して、「それ言っちゃったか…。」みたいなテンションで読む者に迫ってくるあの感じ。登場人物の誰かしらに自分がいる、あの感じ。月並みの表現しか出来ないのが何とも悔しいのだけど。
 
これは幼馴染同士の智也と雄介の話だ。2人の物語とはいえ、最後の章を除いて本人が主観となるのではなく、その周りを取り巻く人物によって、2人の小学校〜大学生時代が描かれる。
 
2人の性格は正反対で、およそ一方の考えを真逆にするともう一方の考えになる。だからこそ分かり合えると言えるかもしれないが、それを差し引いてもなぜこの2人の仲が良いのか周りは疑問に思ってしまう。その疑問に対する答えが出るとき、この物語の根本的なテーマが浮かび上がる。そして本のタイトルが「生きがい」ではなく「死にがい」と書かれてくる意味もわかる。これは、若者たちが「死にがい」を求めて生きる青春小説だ。
 
物語の登場人物たちは常に「生きがい」を求めて生きている。看護師としての生きがい。ホームレス支援を行う社会起業家としての生きがい。社会的、政治的テーマを掲げてイベントを行う学生としての生きがい。その生きがいは、この社会を生きていく活力としてなくてはならないもの。それがあるからこそ、大切な人を守れる。前向きに生きていくことが出来る。目標に向かって頑張ることが出来る。
 
でも、同時にそこでは逆の理屈も成り立ってしまう。それがないと大切な人を守れない。前向きに生きていくことが出来ない。目標に向かって頑張ることができない。周囲の人間は早々と「生きがい」を見つけてどんどん前に進んでいる。そんな現実に焦りと恐怖を感じるとき、「生きがい」と名付けたそれらのものは、生きる活力を与えるものでなく「自分は何もない」という恐怖心から一時でも逃れるためのものでしかなくなってしまう。
 
そして、その恐怖や焦りから逃れるための手っ取り早い方法が、何かしらの実績を世間が求める甘美なストーリー沿ってアピールすること。その実績がどんな小さなことでも構わないし、嘘でも構わない。そうやってストーリーを作り上げる過程の自分に酔い、生きていることを実感する。それがこの物語で語られる「生きがい」。
 
でも、酔いは早い遅いに関わらず必ず醒めてしまう。本当に生きがいを見つけて努力し、自分の人生を生きている人を見たとき。勝手に自分の人生と人の人生を比較し「負けた」と思うあの瞬間。あの人に比べて、自分には何もないと感じるあの瞬間。それらを感じてもなお、登場人物たちはストーリーを描き続ける。その様子は生きがいを見つけるというよりは、死ぬときに賞賛される実績づくりをしているようで、「死にがい」以外の何でもない。
 
この本にも書かれていたが、オンリーワンという言葉が象徴的に時代を彩ったように、この物語の時代背景にある「平成」の時代は、あらゆる場所から競争という概念が排除された時代だった。学校では個性を活かす教育が謳われ、テストの順位も何もかも競うことをやめてしまった。
 
でも、オンリーワンを探そうと自分の個性を改めて考えるとき、そこには嫌でも他者との比較と対立が意識されてしまう。個性も他者との比較の中で生まれるものであり、それなしにオンリーワンも存在しえない。そんな矛盾を抱えながらも自分の生きがいを見つけようとするとき、ある者はあえて対立構造を作って競争を煽り、またある者は慈善活動などを通して他者からわかりやすい形で必要とされることで「生きている」という実感を得ようとする。彼らに対する「他者」は、全て自分の実績作りの一コマに過ぎない。
 
そんな生きがいという名の「死にがい」を探し求める若者たちの物語の中に、自分や周囲の人を重ねてみる。そのときに感じる痛みをこの小説は伝えようとしているだと思う。その痛みに向き合って対処しようするのか、それともその痛みから逃げて死にがいを求め続けるのか。対立なんか煽らなくても、わかりやすい形で他者から必要とされなくても、やりたいことがなくても、生きがいが見つからなくても、生きている実感を得ることは出来ないのだろうか。
 
生きがいを探そうとしても、やりたいことをみつけようとしても、どこか満たされない。そんな平成的な世の中に生きづらさを持った彼らに対しての、作者なりのメッセージがここにあるのだと思う。
 
競争を排除して個性を伸ばそうとしたのが平成であったとして、この物語に込められているメッセージはとても平成的だと思う。それでも、そこに感じる「平成的なもの」にやるせなさは感じるけれど絶望はあまり感じない。それは、平成という時代に一つの区切りがついたからかもしれないし、それらを「平成的なもの」と名付け終わって安心しているからかもしれない。平成的なものは時代が変わっても決して消えることはないのだけど。
 
それでも、平成はもう過去である。今この瞬間に流れている令和の時間は、数十年後いかにして「令和的なもの」として語られるのだろうか。それはちょっと楽しみな気がする。