なぜ、あの戦争は起こったのか。
8月15日が今年もやってくる。戦後73年。
甲子園球場に鳴り響く象徴的なサイレンが、
今年も地面を揺らすだろう。
73年という月日は20代の僕にとっては途方も無い時間に思える。
一人の人間が生まれ、死んでいくのに十分な時間だ。
戦争経験者の平均年齢は80歳を超す。
先の戦争を後世に語り継ぐ時間は、
刻一刻と確実に短くなってきている。
風化という言葉を人々は使う。
あの戦争を風化させてはならない。
忘れてはいけない。そして、繰り返してはいけない。
政権が現政権に変わってから、
憲法9条の議論があり、集団的自衛権の解釈変更がなされる中で、
改めてそんな思いを聞くことが多くなった。
最近、ふと考えることがある。
戦争は悲惨だ。繰り返してはいけない。
起こしてはいけない。
それについては心の底から僕は賛成である。
そして、そのことを繰り返し言い続けることが、
一種の戦争抑止の力になると信じている。
ただ、世間のそんな議論には、
ある視点が決定的に欠けているのではないかと考えてる。
それは、先のあの戦争はなぜ起こったのかということだ。
軍部が暴走した。マスコミが戦争の真相を伝えなかった。
世論が戦争を支持したから。など。
あの戦争の発生には様々なアクターとファクターが絡み合い、
日本は未曾有の戦争に突入していった。
でも、なぜ日本が戦争を起こすに至ったかという根本的な議論についてはマスコミの中でもあまりなされていないし、伝えられていないと思っている。
この時期になると、戦争関連の特集が多く組まれ、戦争体験者の証言や当時の映像などが繰り返し流れる。そのどれもが、耳を塞ぎたくなるような残酷な過去である。
そしてどの特集も結論として戦争は悲惨であるという答えにたどり着き、反戦のメッセージが伝えられる。
でも、果たしてそれだけでいいのだろうか。
先にも述べたように、戦争経験者の残された時間は確実に残り少なくなってきている。
数十年前であれば、政権を担う者も戦争経験者であり、それを支持する既得権益も、そして国民全体も多くが戦争を経験していた。だからこそ、戦争は悲惨であるというメッセージが日本の国全体に強い説得力を持っていた。その中では、なぜあの戦争が起きたのかという具体的な検証がなされずとも、皆が納得感を持ってそのことを当然のように受け入れていた。
しかし時代は進み、時の政権や有権者も戦争を直には経験しない層が圧倒的に多くなってきた。その中では、戦争は悲惨である=戦争はいけないという、長年当然のように言われ続けてきた論理の説得力が弱くなっているように思う。
戦争は悲惨であるということは誰しもがわかっている。だから戦争はいけないというのは当然ながら理屈としては理解できる。ただ、昨今の国際情勢を鑑みると、そんな悠長だけを言ってられないという状況になってきている。
米中の覇権争い、中国の海洋進出、国際テロ組織の脅威、など。
そんな国際情勢を観察すると、本当に日本という国のあり方がこのままでいいのかという議論から、憲法9条改正や集団的自衛権の解釈変更のような議論が生まれてきた。
つまり、戦争は悲惨だ、戦争はいけないとわかっていながらも、戦争放棄とは対の概念が世間で議論されるのである。
その中で、本当に戦争放棄や平和を願うには、単に戦争は悲惨であると伝えるだけでなく、一歩進んで、「なぜ先の戦争が起こったのか」「どうすれば戦争を防ぐことができるのか」ということに、歴史の流れを踏まえてマスコミ始め市民が考える必要があるのではないかと思う。
確かに、あの頃の証言を持ち出して戦争の残酷さを伝えるということは、強いメッセージを込めやすいし、構図として本当にシンプルである。でも、長年それを伝え続けて戦後73年たった現代の社会では、それだけではいけない。
先の戦争が起こった根本原因を社会の流れから捉え、それを現代に還元することが本当の平和維持である。
そして、まずその第一歩として、個々人が次の問題の回答について考える必要がある。
先の戦争は、なぜ起こったのですか?