「無駄」な「共同体意識」を捨てるということ。

あのときは無駄だと思ったことが、時を経て自分の中で大きな価値となることが日々の生活の中では度々あると思う。あの飲み会で払ったお金、初対面の人と2時間もだらだらと雑談し続けたことなど、その直後には自己嫌悪に陥るくらい「無駄だった」と思うの中で、時間が経って思い返してみると、あれが成功を呼び寄せたことになっていたとうことも少なくないのではないか。

 

「クリエイティブな仕事はどこにある?」(2016年、是枝裕和・樋口景一、廣済堂書店』の「冬篇」において、そんな一見すると「無駄なもの」と、個人が持つ「共同体意識」の相関関係について非常に興味がある内容だったと思う。

 

「科学技術」「デジタル」「グローバル」が進む社会の中で重要とされるのが、物事に対する合理性や論理的一貫性である。例えば「会社の売り上げを最大化する」することが命題である場合、その目的に沿って合理的・論理的に事象を分析し、その目的までの最短ルートを探るということが社会の中では求められている。競争が激しくなる中で会社が存続を賭け、合理性を追求することは当然な流れだと思う。その考えが今後社会を形成し、成長していくことになることも理解できる。

 

その中では、ある種の「無駄な行為」は徹底的に削ぎ落とされ、削減されるべき「悪」であるということにもつながる。その代表的な例が、「共同体への帰属意識」である。

 

日本には長い間、終身雇用が社会で当然のことのように捉えられていた。会社の中で仕事をし、結婚をし、子供を育て、会社からの退職金で老後を暮らす。これが日本での幸せの形であった。社員は家族であり、上司は親であり、先輩同期後輩は兄弟のように、疑似家族の形態がそこにあった。でも、経済の停滞でそれを今後何年も運用することが難しくなる中で、終身雇用を前提としない働き方が世の中に浸透してきた。

 

その流れは一般的に「会社からの解放」として歓迎された。これからは自由に、自らが人生やキャリアを選択することができる。自分主体・自分中心の人生が選択可能になることは、「幸せの多様化」が進む現代の動きとも合致する。多くの人がこれからもそのような人生を歩んでいくことになるだろう。

 

しかし、この社会の流れの中で得たものは積極的に喧伝されるものの、一方で「共同体への帰属意識」がもたらしていたプラスの面も押さえていないと、単に「共同体意識=必要のない無駄なもの」となってしまい、本質からずれてしまうと思う。

 

終身雇用が一般的だった時代、共同体意識というのは非常に重要で、その意識こそが会社を大きくし、社会を豊かにし、結果的にそのことが個人の幸せを担保していた。でも、それが崩れた現代においては、自分の人生選択をする際に「共同体意識」は何の役にも立たず、無駄なもの=悪であり、社会から忌み嫌われるようになった。一方で、役に立つのが「知識」「スキル」であり、それをアピールする「自己アピール能力」「ブランディング能力」であったりする。

 

先に挙げた本の中で是枝さんが述べていたことは、会社などへの共同体意識が希薄になる社会の中、「自己アピール能力」「ブランディング能力」に長けた優秀な人材は多くなってきた。でも、その中で新たに自分が所属する共同体を探すことを繰り返す中、物事を全て自分自身のプレゼンにつなげるように物事を考えてしまっているということは認識しておかなければならないということだった。非常に興味深い考察だと思った。

 

前提として忘れてはいけないのは、人間は何らかの共同体に属していないと生きていけないということである。(是枝さんもそう述べている。)その共同体は一義的に「会社」を指すのではなく、例えば友達同士のコミュニティとか、自分で事業を立ち上げていても、そこに共同体は存在する。つまり、共同体とは人間同士のつながりやコミュニティと言い換えることができるかもしれない。

 

だから、会社などで人とのつながりは希薄化しても、SNSが発達している世の中は、本質的には変わりないということになる。

 

共同体探しを繰り返す中で、自己プレゼン能力は磨かれる一方、その先の目的を見失っていることも多いのではないかということだ。その目的とは、「幸せに生きる」ことであり、「社会をより良くする(この社会とは自分の視界内の狭い世界も指す)」ことであるのだが、極論、その目的こそが「共同体に帰属すること」ではないかと思うのだ。

 

分かりやすく言うと、「自分の居場所を作る」ことに意味が似ている。

 

「人がコミュニケーションを取る目的は、それ自体が目的であるからだ」などとはよく言われるが、人間自身、「共同体に所属し、人のつながりを感じる」ことが最も幸せを感じることではないかと思う。例えば「社会を変える」というのが目的であったとしても、結局は自分が変えた「社会」に所属していると感じることが幸せであったり、やりがいであったりするのではないか。

 

だから、よく社会の中で共同体意識が希薄になったということは、個々人が共同体と考える対象が変化してきたということだと思う。それが会社などの客観的な単位ではなく、友達同士やネット上でのつながりなど、客観的には判定しにくい要素を持つ共同体に変化してきたということだ。

 

その中では、一括りに共同体を無駄なものとして否定することは危険である。なぜなら、会社のような従来の共同体の価値観の中でも、人間のつながりというものは存在するからである。共同体を一辺倒に否定し、人間的なつながりまでも否定する必要はどこにもない。

 

例えば、自分が会社という共同体に嫌悪感を覚えていても、その共同体から得られるものはないと一括りに否定すべきではないと思う。自分も共同体に属しているのは同じであり、これからの人生も自分は共同体に属して生きていかなければならない。大切なことは、嫌悪感を抱く中でもその対象の本質は何なのかということを捉えることが大切なんだと思う。

 

共同体を否定して一人で生きて行くと言ったって、人のつながり自体は必要である。そして人とつながることは往々にして「無駄」と思われることも多くある。それでも、つながりを持ち続けること自体が、生きていく上では必要ではないだろうか。