情報を集めるうえで気をつけていること。

「本を読む」ということについて、最近考えることがある。

 

 

読む数自体はそこまで多いわけではないから、そんなたいそうな理論や知識ではないのだけれど、ここ2年ほどずっと考えていたことがようやく自分自身の中で整理をすることができた。そしてこのことは「本を読む」という行為のみならず、それを含めた「情報を集める」という行為そのものにおいて僕が大切にしたいと思うことでもある。

 

 

会社で勧められるということもあって、一般的にいう「自己啓発本」を読むことが前は多かったように思う。自己啓発本とは「働きがい」「生きがい」「人生の目的」などを扱ったものがそれにあたると思う。それらの本は物事に対する違った視点や考え方を読与えてくれるので、それ自体はとても良い機会であると感じていた。でも、読んでしばらく本の内容を思い出そうとしたとき、思ったより印象に残っていなかったということが非常に多かった。そのことが、僕をずっと悩ませていたことであり、本を読むということ、何を読むかということを考える転機となったのである。

 

 

そのことから僕が考えたことは「自分で考えて出した答えしか自分の中には残らない」ということだ。

 

 

先に挙げたような本たちには、「物事はこう考えると良い」「こういう視点が大切」という主観的なメッセージが多く含まれており、それはこの本たちが持つ他の本にはない魅力である。なるほどと思う記述が多いことも確かだ。それらの本を読んでいるとき、あるいは読んだ後というのは、確かにある種の「やる気」に包まれるのだけれども、それがなぜか長続きしない。

 

 

僕自身の考えであるが、その理由は、答えを探すための思考量がそんなに多くないからではないかということだ。

 

 

それらの本には、いずれも「答え」がきちんとした文章で用意されている。だから読んでいる最中に考えなくても、最後まで読みさえすれば答えにたどり着ける。答えとはすなわち、「自分自身がその本に求めていたこと」である。何かを知りたい、考えたいと思い、人は本を手に取る。その「答え」をすべて用意して待ってくれているのが自己啓発本である。

 

 

でも、その「答え」は「考える」という行為がないと決して身につかないものではないかと思うのである。

 

 

例えば学生時代、わからない数学の問題があったときに、最初から答えを見るのか、まずは少しでも自分で考え(仮説を立て)、模範解答と自分の答えがどう違うかを比較するのでは、後者のほうが後先ずっと長く身についたように思う。(答えを見て暗記するという勉強法も有名だが、数学を科目として捉えるのと物事の本質として捉えるのかというのはまた別問題だと思う。)

 

 

本を読むのも同じように、答えを見る前に(あるいは答えがないテーマについて)、「考える」という行為が必要なんだと思う。

 

 

それでは、どのような本を読みのが良いのかというのが僕の次の疑問である。

 

 

そして、そのことについて今は、なるべく「一次情報に近い情報」が多く盛り込まれた本を読むことが重要ではないかと考えている。

 

 

一次情報とはつまり、事実に近いということであり、現場最前線の情報であり、人の解釈がなされていないものである。物事をすべて目の前で見て考えるというのは不可能であり、ニュースあるいはネット・本を通じて情報を得る以上、一次情報を捉えるというのは不可能である。けれど、できる限り第三者の解釈を削ぎ落とした情報に触れることはできるのではないかと思っている。例えばそれは、ある出来事を実際に体験した当事者の話であり、それを目の前で見た人が語る淡々とした事実であると思う。

 

 

本を出すハードルが低くなり、誰もがニュースの批評家になれる現代では、一次情報に近い情報と、人の解釈が重ねられた二次情報以上の情報がごちゃまぜになってしまっている。だから、どれが真実かを読み取ることは非常に難しく、情報に解釈が重ねられるうちに物事の本質が失われ、論点がずれたり、全く当事者の意に反する解釈や憶測が流れたりするのだと思う。

 

 そんな中で、どのようにして一次情報に近い情報を手に入れるのかということで最近考えているのが、「多くの人の話に出てくる本」を読むことである。例えば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」やシェークスピアの戯曲など、現代人に多く引用されたり、オマージュされるものを読むことによって、一次情報に近い情報を手に入れることができるのではないかと考えている。

 

 

これらも本として出版されているものであり、その書き手でない以上一次情報ではないのだが、多くの人が何かの物事を語る上でこれらの情報に解釈を加える。その解釈を楽しむことも一つの娯楽ではあるけれど、何か物事の本質を捉えるということに関していうと、それらの本を実際に読んで自分自身で考えるという行為が重要になるのではないかと思うのである。

 

 

そうであるならば、限りなく一次情報に近い情報というのは、「聖書」ではないかと最近よく考える。「聖書」というものが、人々の視点や考え方を提示し、先ほど書いたような「答え」を提示するのは確かではあるのだけれど、人々の生活のみならず、政治・経済・宗教すべてにおいて物事の考え方の起点になっているという側面を捉えるならば、聖書は限りなく一次情報に近いのではないかと思う。

 

 

僕自身、今のところ司馬遼太郎シェークスピアも読めてはいないのだけれど、近いうちにはそれらに触れ、物事を考え直したいと考えている。(聖書はものすごく長いからどうしようかなと思っている。)

 

 

最初の話に戻る。

 

 

何も自己啓発本をもう読まないとか、そんなものはくだらないとかそういうことを言いたいのではない。(様々なところで引用されている自己啓発本はもはや限りなく一次情報に近い情報であるとも言える。)むしろ逆で、そのような本に触れることも必要であると考えている。例えばひどく悩んでいるときなどは、それを読みことにより救われることもあるだろう。だけど、あくまでバランスが大切なのであって、そのような一次情報に近い情報になるべく触れて、考える機会を持ちたいと考えている今日この頃である。