皮肉という話。

インドの首都、デリーから夜行列車に乗り、12時間ほど走るとバラナシという街にたどり着く。日本人にとってはあまりにも有名な街で、THEインドという光景が当たり一面に広がる。列車を降り、駅の外に出ると、ほこりにまみれた街が顔を出し、けたたましい声やエンジン音がそこらじゅうに響き渡っている。

 

降りて来た乗客が日本人とわかると、リキシャーの客引きやストリートチルドレンたちが手を伸ばし、口々に自分の要求を口にする。これが非日常、かつては最貧国と呼ばれたインドの姿だ。

 

ここまでに書いたことは全て、インドのどの街にいてもあることで、広大な国土の中のいたるところにこのようなパワフルな瞬間が日々繰り返されていると考えると、人口12億人を超え、破竹の勢いで国が発展しようとすることも納得できるような気がする。

 

しかし、ここはインド・バラナシ。

他の街とは事情が違う。

ここは、多くのインド人にとっての世界の中心。

ヒンドゥー教の聖地なのだ。

 

街をガンジス川の方角に向けて歩くと、やがてガートと呼ばれる船着場に着く。そこでは多くのインド人たちが大人も子供も関係なく沐浴をし、身を清めている。

そして、夜になるとそこはプージャと呼ばれる祭りの中心地となり、インド人のみならず世界中の観光客たちが、その幻想的な祭りを見物するのである。

 

祭りも落ち着く22時頃、僕は人の少なくなったガートに進み出て、改めてここが10億人を超えるインド人にとっての世界の中心であるということを考えてみた。真っ暗なガンジス川を目の前にし、インド人が思いこがれるこの地について、この場所の意味を考えてみる。

 

いつかあの場所に行ってみたい。

 

そんな自分にとっての約束の地みたいなものがあるのってなんかいいなと思った。

それが宗教に基づくものであればその思いは一層強くなり、そこに来ることが人生の目的の大きな一つになったりする。いつでもその地を夢見て、大切な人と歩んでいく。たとえ年老いてもそこにたどり着くことで、その人の人生は救われる。

 

そんな場所を一つでも持てるインド人たちが羨ましいと、思った。

 

でも、同じときに僕の頭によぎったのは、バラナシの地に思いこがれるインド人たちのもつ皮肉についてだった。

 

今、インド社会にはカーストという習慣が根強く残っている。

法律でそれによる差別は禁じられているものの、宗教と結びつき、人々の生活に長い年月の間、身近にあったそのカーストが、今もインド社会に大きな影を落としていることも事実である。

 

そんな中でヒンドゥー教を深く信仰し、バラナシに思いこがれるほど、歪なインド社会の構造に組み込まれ、その結果、貧困から中々抜け出せず、バラナシに行くという夢が叶わぬまま力尽きてしまう。

 

バラナシに思いを寄せれば同じ分だけ、バラナシから遠ざかってしまう人々が、社会には一定数いるのではないだろうか。

 

僕が初めに考えていた、どこかの場所を信じることの尊さも、そのような皮肉を抱えながら生きて行く彼らに惹かれたからではないだろうかと思った。合理的ではない利にもならない。それでも、自分の目の前にある巨大な社会を信じ、ひたむきに懸命に生きて行くことが、たまらなく美しく、人々を惹きつけるのではないだろうか。

 

なぜ、日本人のこの僕が、20代の何も持たない平凡な男が、彼らが来ることができないこの地に足を踏み入れているのか。そんなことがいつまでの頭を離れない。