双子の兄弟について。もう一人の自分が目の前にいること

僕には双子の兄がいる。
一卵性の双子の兄弟で、子供の頃から同じ服を着て、同じものを食べて、同じものを見て育ってきた。高校からは別々の高校に通い、別々の大学に通った。大学2回生になった時に、隣の県の大学に通っていた双子の兄は家を出て、それ以来5年ほど一緒には住んでいない。

 

それでも連絡はちょくちょく取り合っていて、兄が地元に帰ってきたときや、逆に東京に住んでいる兄の家に僕が泊まりに行くときは、結構ガッツリと話をしたりなんかする。

 

兄弟といえばそんなものじゃないかと言われればそうなのだが、それでも普通の兄弟の距離感とは少し違う。僕たち双子の上には4つ上の兄がいるのだが、その兄と双子の兄とはやはり距離感が違うのである。どういう風に違うのかということについてずっと言葉に出来ずにいたのだが、ふと最近、ああそういうことだよなというような出来事があった。

 

双子の兄は今、東京の広告制作会社に勤めている。華やかな業界ではあるが、一方で仕事はかなりハードで、一ヶ月に休みが1日や2日というときもあるようだ。大学を卒業してから今の会社に勤めているのだが、最近ふとLINEが来て、どうやら仕事を辞めようと考えている様子だった。結構精神的にキツイらしく、納期の追い込みの時期などになると、一日中緊張状態が続いて、それがかなり辛いらしい。しばらくやりとりしていたが、かなり暗かったので、とりあえず週末に東京に向かう旨を伝え、そのときは終わった。

 

双子の兄のメッセージに返信しているとき、なぜか僕は泣いていた。それも嗚咽が出そうなくらいに自然と涙が出てきて、止めようとするもどうしようもなかった。なぜこんなに悲しいんだろう。どうして俺が泣いているんだろう。そんなことを考えれば考えるほど分からなくなるが、久々にあの時は泣いた。

 

双子の兄に同情して哀れに思って泣いていたのかと振り返って考えると、何かそうではない。これまでの生活の中で、友人のそのような類の話を本人から聞き、同情して哀れに思うことはあっても、今回のように泣くような気持ちになったことはない。

 

ならばなぜ僕はあの時に泣いていたのだろう。

 

 

彼は他者ではない。自分なのだ。

 

 

ずっと考えていたのだが、そうではないかという答えにたどり着いた。それは、双子の兄の半分は自分であったからということだ。

 

 

双子の兄の痛みを同情するよりも前に、自分でそれを感じていた。兄の行き着く先は自分の行き着く先であると僕は無意識に感じていたのだ。目の前に、半分の自分が苦しんでいる。その事実を、僕は友人のときのように客観的に捉えるのではなく、主観的に体験する。馬鹿なことだと言われるかもしれないけれど、自分の中でそう理由付けるしか納得できない。

 


思い返せば子供の頃、双子の兄と喧嘩するとき、最終的には決着なんてつかず、結果的にどちらも泣いていた。そのとき、相手を罵ることは自分を罵ることであり、相手を傷つけることは自分を傷つける事であったのだと思う。罵ることの弱さ、相手を傷つけることの弱さを相手を通して自分自身で体験し、それを実感することでどうしようもなくなってしまう。

 

今回のことも、双子の兄の泣きたくなるような感情を自分自身で体験できるからこそ、どうしようもできない感情が存在したのだと思う。

 

兄はまだ苦しんでいる。解決できるには少し時間がかかるかもしれない。それでも、その痛みを知る人がすぐ身近にいる。客観的ではなく主観的に、自分事として捉える人間が目の前にいる。そんな姿勢で彼の話を聞けたらいい。

 

双子だからってお互いの全てを知っているわけではない。兄の好きな食べ物とか、好きな女性のタイプとか、好きな映画とか、それについては僕は自信をもって答えることはできない。

 

それでも。
自分の半分がそこにいる。
自分の写し鏡がそこにある。

 

この感情に共感してくれる人はいるだろうか?